たっこ堂日記

自作曲と落書き。最近何が主目的かわからなくなってきた…

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

教育と暴力

学校のレポートとして書いた文章ですが、
色々と普段考えていることと関連する部分があるので載せます。

てかこれ印刷したら神経科学の試験勉強がwwwwwやべぇwwwww



ある種の状況下では、教育は「暴力」に近いものとして働くのではないだろうか。つまり意味や価値のレベルでの子供の社会との分裂を招く装置となるのではないか。以下考察する。

 まず、子の犯罪について、親は何らかの責任を負うべきなのだろうかと問うてみる。
 我々はよく「親の顔が見てみたい」という言い方をする。子供が何か犯罪を犯せば、親はそのことに対して責任を感じ、世間に対して謝罪すべきだと考える。これは日本人なら多くの人が持っている感覚だろう。
 ところが個人主義の行き届いたアメリカでは事情が異なる。子が犯罪を犯したとしても、親が世間に対して済まなさを感じたり謝罪したりすることはなく、むしろ積極的に子供を擁護するのだという。(「倫理21」柄谷行人)
 一見すると、成人した子の行為に対して親に「世間」への謝罪を求めることは、近代的な責任主体の観念に疎い日本人の感情論であり、子の責任と親の責任をはっきり区別しているアメリカ人の方が合理的であるようにみえる。しかし、ここで特殊な例を考えてみよう。

 親が「終末思想の具現化」などを求める、反社会的な性格を持つ宗教セクトの成員であり、子供に幼少より思想教育を施してきたとしよう。結果として子供は社会への「悪意」を抱いて成長し、テロリズムや殺人などの形で大きな罪を犯したとする。この時、親は子の犯罪に対して責任を持たないと言えるだろうか。この場合、教育と洗脳は区別できるのか。
 この例を通して明らかになるのは、主体に関する二つの異なった考えである。一方では、個々の人間は自由で自律した理性的な人格である。責任能力を人格を持つ主体の対応能力(competence)として考えるならば、罪はあくまで個人のものだ。もう一方の考えでは、主体とは文化や社会や言語に規定されたものであり、近代的な自律した主体の理念は幻想に過ぎない。これは言うまでもなく懐疑論的思考である。そしてそれは子の抱く世界像が親や教師やセクト的共同体のそれにより根本的に規定されている以上、その責任を子のみに問うことは出来ないのではないかという疑問に繋がる。

 このような主体に対する懐疑が現れる理由は何だろうか。それは何よりもまず、そうした被構成物としての主体が外部の社会や他者と対立するからである。例えば、伝統的なキリスト教社会においては子供は生まれたときからキリスト教徒である。そして殆どの場合、その事は子が生きるうえで障害とはならない。また外部との交流が非常に少ない社会でナショナリスティックな民族教育を施したとしても、それが問題として意識されることはない。そこでは主体と他者、客体が調和しているからだ。
 教育することの責任が露になるのはそういった状況ではなく、例えばキリスト教社会におけるエホバの証人の家庭、あるいは日本社会における在日朝鮮人共同体の民族教育においてである。その場合、「わたし」と、「他なるもの」としての社会は引き裂かれることとなる。これは子が成長していく過程で、決定的な危機として現れる。調和を回復するためには、対立する二つの世界像のどちらかに同化する他はない。積極的に思想に同化し、内部に引きこもるか(=盲信)、あるいは逆に外部へと抜け出していくかである(=背信)。
 この時、子供にとっては一種の「暴力」として教育が機能していると言える。どういった環境でどういう教育を受けるかということは個人の意思を超えた事柄であり、子供は何らかの教育環境に「投げ入れられて」学んでいくしかない。結果、構成される意味世界、文化コードはかなりの度合いその環境に規定されている。もしもその意味世界において社会や他者が自らによそよそしいものとして現れるならば、主体は自己か他者のどちらかを否定する他はないのである。
 
 こうした教育の「暴力」性はもちろん、容易に取り除けるものではないし、それが善意に基づくものであるために、教える側が自覚することも困難である。
 厳密にはある教育が個人の人格形成において危機をもたらすかどうかは個々人によって異なるだろうし、一義的にその教育が暴力的であるか否かを決定することは出来ない。子供の人生に与える影響をすべて予測した上で教育することは不可能であり、その責めを教師が負うことも出来ないだろう。
 けれども、教育する者はやはり教育される者の未来の行為の責任の一端を担うのであり、その人生に対しての責任を持つのである。それは法的に問われることがなくともそうである。行為の主体としてではなく、未来の主体を、そしてその行為を形作る者として担うのである。
 
 以上見てきたように教育は「暴力」でありうる。この性質は廃棄できるようなものではないが、それでも自覚することで可能な限り制御できる物である。そのために何よりも、自明と思われるような事柄であっても常に「問い続ける」こと、自らを相対化する視点を持ち続けることが、教える側にとっても学ぶ側にとっても重要である。
  
スポンサーサイト

テーマ:教育問題について考える - ジャンル:学校・教育

  1. 2010/02/01(月) 04:53:30|
  2. 思考
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

徒然

実家が創価学会です。


ぶっちゃけ僕も創価学会員として登録されています。

中学の頃はとくに疑問も抱かなかったんですが、高校に入ったぐらいから世間の目と親のいうことのズレが自分の中で処理しきれなくなってきて、また自分でいろいろな本を読んで自我を作っていく中で、矛盾を感じるようになったので、大学に入ってからは極力、創価学会と接触をしないようにしています。




でも正直苦しい……。
それでも親に心配かけたくないから新聞は取っているし、何かにつけて青年部の人はくるし、友人たちには隠し通さなければならないし。



祖父には「創価学会を裏切ったらお前を殺してワシも死ぬ」と言われてます。
ガクガク(((( ;゚Д゚))))ブルブル  ……洒落にならん……orz




最近柄谷行人なんかをちょこちょこ読んでいるんですが、「内部」と「外部」というテーマはどうしても自分の境遇を考えて心が惹かれてしまいます。
ただ、ロジックとして超越論的に対立を捉えたところで、実際にこういう生きづらさが消えるわけではないですけどね。

むずかしいなぁ。
  1. 2008/08/15(金) 19:24:45|
  2. 思考
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

プロフィール

じんじゃ

Author:じんじゃ
○趣味 作曲・落書き・妄想
○特技は失踪。

あととてもエロいです。妄念が高じてエロ漫画が描きたくなりました。

ブロとも・相互リンク募集中です。

最新記事

カテゴリ

未分類 (3)
日記 (12)
本 (1)
音楽 (2)
同人 (0)
作曲 (9)
絵 (12)
思考 (2)

最新コメント

月別アーカイブ

最新トラックバック

FC2カウンター

スポンサードリンク

リンク

フリーエリア

ポッドキャストフィード

VOON Podcast Feed

検索フォーム

RSSリンクの表示

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード

FC2ブログランキング

FC2Blog Ranking

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。